東京地方裁判所八王子支部 昭和59年(ワ)626号 判決 1989年11月17日
主文
一 被告は、原告に対し、金四八二万六六九〇円及びこれに対する昭和五四年一月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを二分し、その一を被告の、その余を原告の負担とする。
四 この判決は、一項に限り仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告に対し、金一三六八万四〇四四円及びこれに対する昭和五四年一月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
被告は、東京都東村山市萩山町において、医療施設緑風荘病院(以下「被告病院」という)を経営する社会福祉法人であり、原告(昭和五三年八月二九日生まれ)は、昭和五三年一〇月一九日から被告病院において先天性左外鼠径ヘルニアの治療を受けていた。
2 医療事故の発生
(一) 原告は、昭和五四年一月一一日及び翌一二日の両日にわたり嵌頓ヘルニアを起こし、被告病院で用手整復を受けたが、同月一三日、両親である木村茂及び木村道子を代理人として被告との間で、右ヘルニアの根治手術(以下「本件手術」という)を受ける旨の診療契約を締結した。
(二) 原告は、昭和五四年一月一八日午後一時頃、再び嵌頓ヘルニアを起こしたが、被告病院勤務である鈴木正明医師(以下「鈴木医師」という)に用手整復され、引き続き同日午後一時三〇分頃から約一時間に亘り同医師及び同病院外科部長宮城伸二医師(以下「宮城医師」という)による本件手術を受けたが、両医師は、右手術により、誤って原告の睾丸組織に血行障害を及ぼし、その結果原告の左睾丸を萎縮、欠損させた。
3 両医師の過失
(一) 手術方式の選択の過誤
鈴木医師及び宮城医師は、原告の手術を行うにつき、昭和五四年一月当時の小児外科医学の常識に従って、小児の先天性外鼠径ヘルニアに最も適した術式を選択する注意義務を負っている。
ところで、小児鼠径ヘルニアは、胎生期からの腹膜鞘状突起の残存という先天的基盤によって発生し、成人のヘルニアのように腹筋の減弱や萎縮によって発生するものではない。そこで、小児鼠径ヘルニアの治療のための手術方式としては、ヘルニア嚢の高位結紮切除のみを行う方法(ルーカス・シャンピオンニーレ法ないしボッツ法)を採用すれば十分であり、鼠径管の位置を変え鼠径管の後壁補強をし内鼠径輪の縫縮を伴うような措置(バッシーニ法)を採る必要はない。
しかも、バッシーニ法は、ヘルニア嚢を含めた精系全体を鼠径管床からすくい上げ、テープなどで挙上するため、小静脈や小リンパ路を損傷して、陰嚢内血腫から睾丸萎縮を引き起こす危険が多く、また、鼠径管の後壁補強により内鼠径輪をしめすぎ、鼠径管内の精索を圧迫して睾丸への血行を障害して睾丸萎縮をもたらす可能性が高いとされている。
したがって、小児の先天性外鼠径ヘルニアに対する根治手術においてバッシーニ法を採用することは有害無益であるから、医師としては、これを選択すべきではない注意義務を有している。
しかるに、鈴木医師及び宮城医師は、かかる注意義務を怠り、バッシーニ法を採用して本件手術を行った。
(二) 手術措置の過誤
仮にバッシーニ法選択自体に注意義務違背はないとしても、鈴木医師及び宮城医師は、同法を選択した以上は、血管損傷や血管圧迫等が起こらないように手術を施行する注意義務を有する。
しかるに、右両医師はこれを怠り、内鼠径輪を過度に縫縮し、精索を圧迫して睾丸組織への血行障害をもたらした。また、処置を必要としない陰嚢水腫に対する処置として、睾丸組織をヘルニア嚢から剥離して引き出し、同時にそのため鼠径部そのものも剥離して引き出し、かつ末梢のヘルニア嚢を除去し、睾丸組織を直接損傷させて、陰嚢血腫(陰嚢皮下血腫を含む)を生じさせ、睾丸組織の血行障害を惹起させた。
(三) 手術時期選択の過誤
ヘルニア患者の嵌頓ヘルニアを整復して間もなくの時期は、局所組織が浮腫状でもろくヘルニア嚢が容易に破れるため、手術操作が煩雑になり、血腫形成を生じやすい。したがって、医師としては、手術前に嵌頓が起こった場合は、手術を強行せずに、まず嵌頓の整復を試み、局所の浮腫炎症所見が治まるのを確認してから(通常、整復成功の後二日ないし三日かかる)、手術を行う注意義務がある。
しかるに、鈴木医師及び宮城医師は、この注意義務を怠り、嵌頓整復直後でまだ局所組織に浮腫のある原告に対し、本件手術を強行し、鼠径管後壁を五針も縫合したため、内鼠径輪を過度に縫縮し、睾丸組織への血行障害から原告の睾丸萎縮を招いた。
(四) 説明義務不十分
バッシーニ法は、睾丸萎縮を惹起しやすい危険な術式であるから、鈴木医師及び宮城医師は、本件手術の前に、原告の両親である木村茂及び木村道子に対し、バッシーニ法を採用すること及びその危険性について十分説明する義務があった。もし説明がなされていれば、原告の両親は、本件手術につき承諾を与えなかった可能性が大きい。鈴木医師および宮城医師は、術前にかかる説明を行わず、従って両親の適法な承諾がないまま本件手術を施行した。
4 被告の責任
被告は、両医師の使用者であるから、民法第七一五条に基づき、両医師が職務上の行為によって原告に与えた損害を賠償する責任がある。
また、両医師は被告の履行補助者でもあるから、両医師の行った過失行為につき、被告は診療契約上の債務不履行責任を負い、原告に与えた損害を賠償する責任がある。
5 損害
(一) 逸失利益 金八五二万円
原告は、本件医療過誤によって、左睾丸を失い、生涯に亘ってその労働能力の二〇パーセントを喪失した。
原告の将来の予想賃金は、昭和六二年度賃金センサス全産業全男子労働者の学歴計平均収入によれば、金四四二万五八〇〇円である
従って、逸失利益は、
四四二万五八〇〇円×二〇パーセント×九・六三五=八五二万円
となる。本件では、右損害の内七三一万三三五〇円を請求する。
仮に、逸失利益の損害が認められないのであれば、本件手術を原因とする左睾丸萎縮による単睾丸症になった損害についてはすべての事情を慰藉料として考慮すべきで、かかる場合の慰藉料の額は一〇〇〇万円を下らない。
(二) 慰藉料 金五〇〇万円
右後遺症により原告の受ける精神的苦痛に対する慰藉料は、少なくとも五〇〇万円を下らない。
(三) 医療費 金一二万六六九〇円
本件手術後、二年経過した昭和五六年四月、原告は、順天堂大学医学部付属病院において、左睾丸の機能が残っているかどうかの、診察及び手術を受け、その結果、原告の左陰嚢内には、睾丸組織が残っていないことが判明した。かかる、診療費用として原告は、合計一二万六六九〇円を支払った。
(四) 弁護士費用
金一二四万四〇〇四円
(五) 合計
金一三六八万四〇四四円
6 よって、原告は、被告に対し、第一次的には、民法七一五条の使用者に対する損害賠償請求権に基づき、第二次的には債務不履行に基づく損害賠償請求権に基づき、一三六八万四〇四四円及びこれに対する本件不法行為の日の翌日である昭和五四年一月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1は認める。
2 同2の(一)は認める。
同2の(二)は、鈴木、宮城両医師の身分及び両医師が原告主張の日時に、原告のヘルニア根治手術を行ったことは認め、現在の原告の左睾丸の症状は不知、原告主張の本件手術と原告の現在の左睾丸の症状との因果関係は否認する。
仮に、原告に睾丸異常があったとしても、本件手術が原因でもたらされたものではない。
原告は、本件手術後、停留睾丸となっており(昭和五四年三月六日、被告病院小児科で停留睾丸との診断を受けている)、停留睾丸の場合、手術とは無関係に睾丸萎縮、欠損等の睾丸異常が生じることがある。
また、原告の場合には、嵌頓を繰り返していたため(嵌頓の時間が長ければ、長時間精索内の動脈が圧迫され、酸欠状態になり血行が遮断され)、睾丸の発達が阻害され、睾丸萎縮を惹起する可能性が十分ある。
3 同3の(一)は、両医師が原告主張の注意義務を有すること、小児鼠径ヘルニアが先天的基盤によるもので、腹筋の減弱や萎縮によるものではないこと、バッシーニ法がヘルニア嚢を含めた精系全体を鼠径管床からすくい上げ、テープで挙上すること、鈴木医師及び宮城医師が、バッシーニ法で本件手術を行ったことは認め、その余は否認する。
本件で、鈴木医師及び宮城医師が、バッシーニ法を選択した理由は、(1)宮城医師が、小児鼠径ヘルニア手術については従前から、ヘルニア門が小さければボッツ法(ヘルニア嚢の高位置結紮)、ヘルニア門が大きければファーガソン法(ヘルニア嚢の高位置結紮と鼠径管の前壁補強)、ヘルニアが大きく陰嚢内にまで達して、内鼠径輪の拡大、鼠径管後壁の脆弱化が予測される場合には、バッシーニ法という基準で術法を選択し、これまでの小児鼠径ヘルニア手術例のうち約三分の一についてはバッシーニ法を採用してきたが、本件以前の手術で睾丸萎縮等の合併症を惹起したことがなかったこと、(2)原告のヘルニアは、外鼠径輪を越え、左陰嚢内にまで達する比較的大きなものであり、ヘルニア門が広かったので、鼠径ヘルニア再発防止のため精索の後壁を他の筋肉で補強する(内鼠径輪の縫縮を伴う)必要があったこと、(3)原告のヘルニアには陰嚢水腫を合併しており、睾丸組織をヘルニア嚢から剥離して引き出すことが必要で、このためには、鼠径部に操作を加えずヘルニア嚢だけを剥離して取り出す方法(ボッツ法及びファーガソン法)は適切でなかったことの三つが挙げられ、本件でバッシーニ法を選択したことは、昭和五四年当時の医療水準に照らして誤りではない。
同3の(二)は、両医師が、原告主張の注意義務を有することは認め、その余は否認する。被告が「睾丸組織そのものを陰嚢から引き出した」、「末梢ヘルニア嚢を除去した」、「睾丸組織を直接損傷させた」事実はない。鈴木医師及び宮城医師は、後壁補強の必要のため、ヘルニア嚢の腹膜境界部までの十分な剥離と十分な高位での結紮が必要と認め、十分注意を払って手術操作を行った。
同3の(三)は、両医師が原告の鼠径管後壁を五針縫合した事実は認め、その余は否認ないし争う。
原告が最後に嵌頓を起こしたのは一月一八日午前五時頃であるが、医師により早期容易に用手還納されており、原告主張のような合併症の危険性は少なかった。
なお、嵌頓が整復された場合でも、強度の嵌頓の場合、あるいは嵌頓を繰り返す危険性のある場合には、組織の腫張等が時間経過とともに顕著となり、放置すれば、ヘルニア嚢内の腸管が血行障害による炎症を起こし、腸管破裂、穿孔等による腹膜炎の原因となり、致命的な合併症を惹起する可能性がある。そこでこのような場合、仮に嵌頓が整復された後まもなくであっても直ちに手術を行う必要がある。
同3の(四)は、鈴木医師及び宮城医師が、原告の両親に、バッシーニ法を採用すること及び同術式について説明しなかったことは認めるが、その余は否認する。
4 同4は、被告が鈴木医師及び宮城医師の使用者であること、本件手術が両医師の職務の執行であること、両医師が被告の履行補助者であることは認めるがその余は否認する。
5 同5の各事実はすべて知らない。
第三 証拠<省略>
理由
一 請求原因1、同2の(一)の事実及び原告が昭和五四年一月一八日午後一時三〇分頃から約一時間に亘り被告病院に勤務する鈴木、宮城両医師からバッシーニ法による先天性左外鼠径ヘルニアの根治手術を受けたことは、当事者間に争いがない。
二 <証拠>によれば、原告は昭和五六年四月二二日順天堂大学医学部付属病院の医師等による診断及び検査では左睾丸の萎縮が顕著で、左陰嚢内及び左鼠径部には睾丸組織自体が残存せず、かつ、左精巣動脈が欠除し、現在の病状も同様であり、またこれが将来改善される見込みもないことが認められ、さらに<証拠>によれば、原告の右症状は、本件手術により鼠径管内にある精索(動脈、静脈、輸精管等を含んだ紐状のもので睾丸に連なる)が圧迫され、正常であった原告の左睾丸への血行を阻害した結果生じたものと認められる(これに反する<証拠>は、いずれも措信しがたい。)。
被告は、原告の睾丸萎縮を、本件手術後に発生した停留睾丸、もしくは術前に発生していた嵌頓ヘルニアの結果発生した可能性がある旨主張するが、前掲の各証拠によれば、本件手術後原告に発生した停留睾丸自体が本件手術による精索圧迫に起因すること、また、本件手術前、原告の左睾丸には格別の異常が無かったことが認められるから、被告の主張はいずれも採用しがたい。
三 そこで、以下、本件手術担当の両医師の過失の有無について判断する。
1 手術方法選択の過誤について
(一) 本件手術においてバッシーニ法が採られたこと及びバッシーニ法の手術内容については当事者間に争いのないところ、<証拠>を総合すると、次の事実が認められ、これに反する証拠はない。
(1) 鼠径ヘルニアとは、鼠径部に腸などの内臓が脱出する疾患で、外鼠径ヘルニア(外側鼠径窩から鼠径管を経て外鼠径輪に出るもので、先天性のものが大部分を占める。)と、内鼠径ヘルニア(内側鼠径窩から鼠径三角を経て外鼠径輪に出るものだが、発生は稀。大多数は後天性のもので四〇ないし五〇歳の男子に多い)に分けられる。
(2) 男子の精巣は、胎生早期には、腹腔内に存在するが、次第に、腹膜の鞘状突起に沿って腹壁を貫いて陰嚢に下降する。鞘状突起は、腹膜が鞘状に突出したものであるが、通常は精巣の下降が終わると閉塞する。この閉塞が十分でない場合、鞘状突起の遺残がポケットのように存在してそこから大腸または小腸が内鼠径輪から鼠径管を通って外鼠径輪に脱出することがある。これが、先天性外鼠径ヘルニアであるが、小児の鼠径ヘルニアの大部分が、この先天性外鼠径ヘルニアであり、原告の本件手術前の症状もこれに属した。
一方、後天性の外鼠径ヘルニアや内鼠径ヘルニアは、内鼠径輪付近の腹壁の筋肉の抵抗が減弱になったところに腹圧がかかり、そこにヘルニア嚢(壁側腹壁でできている。そこにヘルニア内容となる腸などが入り込む)が脱出する。
(3) 本件手術は鈴木医師が執刀したが、同医師は昭和五〇年に医師資格を取得し、同五三年一二月から研修医として被告病院に勤務していたもので、その処置はすべて同病院外科部長の宮城医師の指導、監督の下にあり、本件手術におけるバッシーニ法の採用も宮城医師が決定した。
(4) ところで、バッシーニ法とは、ヘルニア嚢の口の部分を縛る(結紮)と同時に、鼠径管の後壁周辺部分の筋肉を寄せて後壁を補強し、弛緩した筋肉部分からのヘルニア再発を防止する方式であり、従来日本においては、成人、乳幼児を問わず、鼠径ヘルニア手術の方式として採用されていたが、その後の小児外科医学の進歩に伴い、昭和三〇年代後半以降から、小児の先天性外鼠径ヘルニア手術では原則として、ヘルニア嚢を根本深く完全に結紮(高位結紮)するだけで、後壁補強は行うべきではないとの考えが大勢を占めるようになり、昭和四〇年代後半からは、医学書等を通じて、一般外科の分野にもこれが流布され、定着していった。
(5) このような考え方が定着していった理由は、前記のとおり、小児の先天性外鼠径ヘルニアは、成人のように腹壁の筋肉が脆弱化して生ずるものではないので、高位結紮して既存のヘルニア門を閉じれば治療として完全で、それ以上に鼠径管の後壁を補強してヘルニアの再発を防止する必要のないこと、しかも、バッシーニ法での後壁補強は、内鼠径輪を過度に縫縮する危険を伴い、その結果精索を強く緊縛したり、精索を圧迫して、精索内の動脈、静脈の血行を阻害し、睾丸の血行障害、ひいては睾丸萎縮を引き起こす危険が多分にあることが多くの小児外科医により説得的に強調されたためで、小児の外鼠径ヘルニアにおいてバッシーニ法の採用は原則として禁忌すべきものと解説された。
(6) 宮城医師は昭和三二年に医師免許を取得し、同三三年からアメリカ合衆国に五年間留学して一般外科を習得したが、その際、小児の鼠径ヘルニアについては、バッシーニ法を採用しないほうがよいとの考え方を学び、昭和三八年頃からは、小児鼠径ヘルニアにつきバッシーニ法に代え、後壁補強を伴わない術式であるボッツ法、ファーガソン法等を多く用いるようになった。
(二) 以上の事実によれば、本件手術当時、小児の先天性外鼠径ヘルニア手術においては、精索圧迫による血行障害、その結果としての睾丸萎縮の危険を伴うバッシーニ法の採用は原則として回避すべきことが一般外科医の認識としても定着しており、本件手術を実質的に執行した宮城医師も、これを充分認識していたことが明らかである。
そして、原告の睾丸萎縮症状が、バッシーニ法の採用に伴う危険として広く認識された精索圧迫による血行障害に起因していることも前記認定のとおりであるから、本件手術においてバッシーニ法を採用すべきであったというような特段の事情が認められない限り、宮城、鈴木両医師は本件医療事故の発生に関して、バッシーニ法という手術方式を採用したこと自体に過失があったというべきである。
2 そこで、以下、本件手術においてバッシーニ法を採用すべき特段の事情があったか否かについて検討する。
被告は、本件手術において、両医師がバッシーニ法を採用した理由として、請求原因に対する認否3記載のとおり主張し、両医師もこれに副う内容の証言をする。
しかしながら、<証拠>に照らせば、被告主張の各事実は、いずれもバッシーニ法採用の合理的な理由とは認めがたいものであって、本件手術前の原告の症状においては、ヘルニアの根治手術として、原則どおりヘルニア嚢の高位結紮のみに止めるべきで、それ以上に鼠径管後壁を補強をすべき特別な理由は見出しがたいから、本件手術において両医師が後壁補強を内容とするバッシーニ法を採用したことは、手術方法選択の裁量の範囲を逸脱し、医師として過失があったといわざるをえない。
四 そして、請求原因4のうち、被告が鈴木及び宮城両医師の使用者であり、両医師が被告の事業の執行として本件手術を行ったことは当事者間に争いがないから、被告は民法七一五条により、原告に発生した後記損害を賠償すべき義務がある。
五 原告の損害
1 逸失利益
前記認定の原告の左睾丸欠損症状によって、原告がその主張するような労働能力を喪失したと認めるに足りる証拠はないから、原告主張の逸失利益は認められない。
2 慰藉料
将来原告が単睾丸であることを精神的苦痛と感じる時期が近く到来することは容易に察することができ、かかる苦痛を慰藉するには金四〇〇万円をもって相当と考える。
3 医療費
弁論の全趣旨によれば、原告主張の医療費金一二万六六九〇円の支出が認められ、右は本件医療事故に基づき発生した損害と認められる。
4 弁護士費用
本件訴訟の難易、前記認容額その他諸般の事情を総合すると、原告が被告に請求しうる弁護士費用は、金七〇万円と認めるのが相当である。
六 以上、被告は原告に対し、鈴木医師及び宮城医師の使用者として、両医師がその職務として行った不法行為によって原告が生じた損害額の合計金四八二万六六九〇円及びこれに対する本件不法行為の日の翌日である昭和五四年一月一九日から支払い済みまでの民法所定の年五分の割合による遅延損害金を賠償する義務があることになる。
したがって、原告の本訴請求は右の限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 片岡安夫 裁判官 光前幸一 裁判官 遠藤真澄)